テーマ:ご当地物語 / 岩手県大槌町

ペタンクルアーチ

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彼女が毎月その月命日の日に鵠沼海岸に行って手を合わせていることに気づいたのはまったくの偶然だった。それは高二の夏休み。あいつと江の島ボウリングセンターで数ゲームずつ投げてからの帰り道のことだった。夕刻の海岸沿いの遊歩道を歩いていると、あいつが先に、ひとりで海にむかって立っている彼女に気がついた。
乳白色の空の下、彼女は浜辺の波打際にひとり立ち、海を渡ってきた風に髪をなびかせたまま、しばらくのあいだ海をじっと見つめていた。それからそっと、彼女は胸のまえで手を合わせたのだった。少し離れた遊歩道のところから、あいつと並んで彼女のその姿を見ていたぼくは、彼女が経験したあの日のことを思い浮かべずにはいられなかった。彼女はいま、ふるさとの山を思うことはあるのだろうか。沖合から港に帰るときにいちばん最初に見える山なんだよね。鯨山についていろいろ調べてみたりしていたから、そのことについて話してみたいという気持ちはいつもあった。けれど、その話はまだすべきではないということもわかっていた。
あいつが今日は帰ろうとかすれ声で言い、ぼくもそれに同意した。帰りのバスのなかで彼女のことばかり考えていたぼくは、今日が月は違うがあの日の日付であることに思い当たった。
それから夏休みが終わって二学期になったとたん、突然あいつが母親の実家がある京都のとある有名な私学校へと転校することになった。ただ本気になっただけだと、あいつはその理由を語った。駅に見送りに行った際に、あいつはぼくにむかってある言葉を口にした。ペタンクルアーチ。ぼくは聞き返した。意味を尋ねたけれど、あいつはクイズだよと言って静かに微笑むだけだった。それからぼくたちは長い握手をし、そして別れた。それじゃあ、またな。ああ、また。と言って。

その日から少し経って、ぼくが小学生の頃から通っているスイミングクラブに彼女が入会してきた。彼女の家からの距離を考えれば、このクラブを選ぶのは当然と言えば当然のことだったのに、最初ばったりクラブで彼女と会ったとき、なんだかぼくは異常に驚いてしまって、彼女に爆笑されてしまうというありさまだった。
だけどそのとき以来、クラブで彼女に会うことは数ヶ月のあいだはなかった。と、ぼくは思っていたのだけれど、それはたんにぼくが気づかなかっただけで、どうやら彼女はぼくの泳ぎを2階の通路からときたま見ていたらしかった。数ヶ月ぶりにクラブで会ったとき、彼女はいきなりぼくにむかって、ペタンクルアーチだわ、とあいつとおなじ言葉を口にした。それから、それって速さを生み出すものではなく、深く潜るためのものよねとも。確かに。ぼくのバタフライは速くはない。ペタンクルアーチとは、クジラが深い潜航を行うときに、最後の息継ぎをして、海面高くからだをアーチ状にして潜っていくその姿のことを言う。だから、さようならとか、またねとか、そんな意味にもとれるから、たぶんあいつはそういう意味で使ったのだろうと、ぼくは自分なりに調べて解釈していた。しかし彼女は違った。彼女はぼくのバタフライの腰の使い方が、まさにクジラのそれみたいだと言うのであった。 

ペタンクルアーチ

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