夕餉
この季節にぴったりの麻の素材の紺のネクタイ。よく似合うね、と人から何度も褒められたものだ。
「今日は暑かっただろう。外回りの後、会社に入る直前にネクタイを取ったんだ。その後、うっかり自販機横のベンチに座ってしまってさ。そのまま、置いてきてしまった」
忘れたことを思い出した途端、忘れるまでの動作や忘れた場所までも鮮明に思い出すなんて、皮肉なものだ。
忘れたものと、その経緯を話す間も、彼女は穏やかな顔で静かに僕の話を聞いてくれた。
美味しい食事を終えると、僕は大きく欠伸をする。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
二人向き合って、お礼を言い合うように挨拶をする。
食べ終わった途端、眠気が襲ってくる。片付けくらいは、と席を立とうとすると、彼女はそっと首を振る。
「……おやすみなさい」
彼女の声に、僕は不思議と穏やかに眠りに落ちていった。
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次の日も、僕はまた彼女の家の前に立っていて、同じようにドアを開ける。
彼女はやっぱりそこにいて、おかえりなさい、と優しく僕を出迎えた。
今日は、油揚げの味噌汁ときんぴらごぼう、煮物とゆかりご飯だ。
シンプルだけど、飽きのこない穏やかな夕餉。
彼女の真似をして、手を合わせて静かにいただきます、を唱える。
何口か食べていると、今日も彼女は僕に尋ねた。
「忘れものは、見つかった?」
そして、僕は昨日と同じように、また忘れていたものを思い出す。
「今日は折りたたみ傘を忘れてしまった」
急な雨に慌てて傘を開いたあと、電車の中で閉じて、うっかり床に置いてしまった。そして、そのまま忘れてきたのだ。帰り道は雨があがっていたものだから、言われるまですっかり頭から抜けていた。
「また、置いてきてしまった」
そう言うと、彼女は優しく微笑んだ。
その次の日も、またその次の日も。
僕は彼女の家に行き、一緒に夕餉を食べた。そして、僕が忘れた、忘れものの話をするのだ。ハンカチや、定期、帽子や大切な万年筆。
僕はどこまでも忘れっぽくて、毎日何かしら無くしてしまっていた。
そんな日々を何度か繰り返していた頃だ。
その日も、いつもと同じように僕は彼女の前に座って、いただきます、と唱えていた。
さっそく味噌汁に箸をつけると、中からは、まるで氷のような透明な食べ物が現れた。一口食べると、無味無臭、というか、なんとも言えない食感だ。じんわりと広がる瑞々しさだけが、唯一の食感だろうか。
夕餉