テーマ:ご当地物語 / 渋谷

雨の魚

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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山の手線を降りると魚が泳げそうな湿気が肌にまとわりつき、胸の開いた服の襟に微かな汗が滲んでいった。
梅雨も終わりの黒い雲の下、ハチ公の前を横切り長いエスカレーターに運ばれて、井の頭線改札前に出た。これまで何回見たか知れない岡本太郎の『明日の神話』の前でコンパクトを覗くと化粧は汗に流れず、分かるか分からないかのところを保っていた。スクランブル交差点を見降ろす窓を背にして、左の胸に流した髪が重たいのかすこし首を傾げるようにした。
来ないと分かっている相手を待つのは何人目だろう。
歳は二十歳にも届いていなかったが、彼女は関係と感情のよりしろとしての身体の使い方を知っていた。彼女の身体がそれを知っていたと言うべきかもしれない。それは誰に捧げるものでも守るべきものでもなくて、それを持って生まれた者のやむをえない在り方というようなものであった。少なくない男が彼女を求め、彼女はその誰をも拒むことがなかった。
彼女はその男たちを待っていた。一つ一つの関係が終わるたび、かつて待ち合わせた時刻に、いつも使っていた場所で待ってみるのだった。といっても、そのときその場所にその男が現れたら自分が、自分の身体がどうなるかは分からない。そういう興味から自分がこんなことをしているのかとも思えたが、それは言葉の無理であるような気もした。もちろん、その男が来たことは一度も無かった。
品川駅のスターバックスで待っていた男。
府中のパルコで待っていた男。
新宿区役所前のミスタードーナツで待っていた男。
高田馬場のHUBで待っていた男。
待つ時間に思い出す彼らは、みんなそれぞれに可愛かった。すべて自分から振ったのだ。
 約束の時間からお腹の空くまでそこにいて、『明日の神話』の男と行ったBunkamuraの前のカフェで食べて帰ることにした。交差点は雲で蓋をされたように蒸していて、信号が変わって人が動くとアスファルトの熱が動いてなおのこと暑かった。同じような色の傘を提げた人々のなか、井の頭通りを歩いていると、スーツ姿の男に声を掛けられた。
「ちょっとすみません、今お時間大丈夫ですか? お話だけでも。」
「ごめんなさい。」
 困り顔を作り、どこかのごみ箱に捨てることになると分かっている名刺だけ受け取って会釈を返した。名刺の手触りで、WOMBの男を思い出した。二人でそのクラブから抜けだした次の朝、男は名刺を見せながら言った。
「こういう男とこうなったことないでしょ。」

雨の魚

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