お鮨を二貫重ねた家で
懐かしく甦るあの頃の日々。夕暮れ時の不忍池や上野恩賜公園の噴水の周りを僕たちは良く散歩した。噴水の前で夕暮れを見て、「東京にもこんなに空のひらけた美しい場所があるんだね……」と二人でずっと眺めていた。手をつないで、飽きもせずに将来の話しを繰り返していた。毎日を夏休みのように過ごしていたあの頃の日々を、いまは遠くに眺めている。
学生の頃、当たり前の幸せは、当たり前のように手にはいるものだと思っていた。妻、家庭、子供、暮らし、車、税金、保険、教育費、住宅ローン。まだ僕にはそのすべてが縁遠いものに感じられる。
ひとしきり自宅一階のアトリエで絵を描き、いつものようにサンダル鳴らして不忍池のまわりを散歩する。季節ごとに姿をかえる蓮の葉っぱの合間には、ピンクの花のつぼみがちらほらと。この街にも夏が近づいてきている。あじさいの裏にぴたりとカタツムリ。ぼんやりと池のむこうを眺めつつ、ふと視線を戻した時に、ベビーカーを押して歩く夫婦とすれ違う。
「あ……」と思って振り返ったのは僕だけで、笑いながら歩く後ろ姿を見つめつつ、彼女が一体どんな幸せを手に入れたのか、想像しながらポケットのガムをひとつ口に放り込む。さあ、家に帰ろう。僕はやるべきことをやらなくちゃ。シャンプーハットしてるのに、バスルームで涙が出るのはいつものことだ。
彼女のために、絵を描こう。彼女のための絵はとびきりのものじゃなくちゃいけないのに、僕は何も描くことが出来ない。万年筆をもてあまし手の甲にイルカの落書きするくらい。それでも、いつか光こぼれるような絵を描こう。何枚も何枚も。そして二人のことも描こう。
ヤモリと暮らす小さな家。お鮨を二貫、縦に重ねたような小さな家で、今日も僕は絵を描いている。
お鮨を二貫重ねた家で
ページ: 1 2