テーマ:一人暮らし

かさねぐらし

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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「そうなんですか。だけどその本は目に付いたから買っただけで、私の好みが反映されているかは微妙でして」
 なんだ、と彼はつぶやいて、体育座りをはじめた。
「しかし無断で借りるのはよくなかった。君の部屋のものなのに」
「そういうものなんですか」
「一人暮らしの部屋っていうのは、最高にプライベートな空間じゃないですか。この本に君が引いたラインだとか付箋だとかがあったらどうしようって不安だったんです。杞憂でしたけど」
 私は本を拾ってベッドの上に置き、その隣にゆっくりと腰を下ろした。適度に柔らかく、沈み、元に戻る。寝る場所で座る場所。斜め上から見る彼の鼻筋は本当にくっきりとしていた。
「そう言われてみると、なんだか罪悪感がわいてきました……漠然と他者の私生活を受け入れすぎて」
 黒いスカートで隠れた自分の太ももをじっと見つめていると、ベッドが軋んで揺れた。はっと隣を見ればすぐ近くに彼の顔があった。
「罪悪感、わけてくれませんか……共犯者になりましょう」
「共犯者」
「そう。共犯者」
 私たちはしばらく互いにその単語を繰り返しあって、それから目を合わせて頷いた。
 ひとりならではの粗雑な朝食を摂っている人、やることが山積みになっていて結局は何もできない人、部屋の中に他人への配慮がたくさん置いてあって狭そうな人……その他、多くのひとりぐらしについて語る。最初のうちは彼も真剣そうな顔つきで相槌をうっていたが、次第に表情を強張らせていった。話が長くなったと、いつのまにか固めていた膝の上の拳をゆるめる。
「そして今回のかさねぐらし。これは本当に前例のないことです。だいたい、私より部屋が殺風景な人なんて初めて見ましたから」
 主人のいない家には。
 ちらりと彼に視線だけを向ける。すでに彼は私の顔を見ていた。
「話してくれてありがとう……そうか、かさねぐらしって面白いものですね」
「私はあまりそう思いません」
「罪悪感は減らなかった?」
 そういうことではなくて、と私は呟いてから長い息を吐いた。
「他人の生活を重ねれば重ねるほど、自分の何もなさが堪えるので」

 菓子パンを咀嚼しながら、私はディスプレイに表示されたサイトを見つめる。和気藹々としたおしゃべりやキーボードをがたがたと叩く音の中で、マウスを操作し、リンクをクリックし、キーワードを変えて、検索ボタンを押す。
 靴箱に靴を入れる。暗い玄関に立ち尽くしたまま、扉の磨りガラスごしに部屋に明かりがついていないことを確認する。

かさねぐらし

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