テーマ:一人暮らし

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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「何してんだろ……」
ぐったりした。ハンドルにもたれかかり、海を眺める。ぼんやりと波に揺れる船を眺める。どれも人気がなく、風にたなびく柳のようだ。
今まで、20年近くいい姉を演じてこれたじゃないか。今更こんな子供じみた喧嘩をするなんて。無意味に傷つけて無意味に傷ついた。こういうことになることが嫌で実家を出たはずなのに。
真っ暗な海からは波の音だけ聞こえる。田舎の海は本当に真っ暗だ。
もっと都会に行こうと思えば多分、行けた。東京とか大阪とかそういう都会に出ればもっと仕事も違うだろうし、暮らしも変わっただろう。それこそ、弟にも両親にも絶対に邪魔されない自分だけの城を持てただろう。
でも、そうしなかったのはきっとどこかに寂しさがあったのだ。いつでも帰れる距離。文句を言いながらも会いに行けて、嫌になったら離れられる。これでは甘ったれな家出娘と何ら変わりない。海辺でチャプチャプ水遊びしてるようなもんだ。
しかし、きっとこれで弟は実家に帰るだろう。そうして、もう私の所を頼ったりなんかしない。1番の実家との繋がりだった弟を絶ってしまった。これでは、いくら距離的に実家に近くても元のように何食わぬ顔で実家に戻ることは難しいだろう。

目をつむると思い出せる実家の細部。敗れかけの障子、くすんだ柱、日当たりの悪い駐輪スペース、大声を出したら隣に聞こえそうな隣家との距離感。どれも確かに嫌だったはずだ。

「ねぇ、ちょっと」
思考の海に沈みかけている私を引き上げたのは、コンコン、とドアを叩く音。反射的に飛び上がる。
見ると、見覚えのないおじさんが車内をのぞき込んでいた。頭にタオル、足元には黒の長靴。なんだかサザエさんの古風な魚屋さんみたいな格好だ。
「ちょっとさ、火、ある? タバコ吸いてぇんだけど」
警戒しきった私をなだめようとしたのか、そのおじさんがそう呟いた。手には1本のタバコ。
「えと、私、吸わないんで……」
「車についてるでしょ? シガーソケット」
あぁそうか、と納得する。タバコを吸わない私はスマホの充電くらいでしかそこを使ったことがない。キーを回し、車内の電気系統だけ使えるようにする。シガーソケットを押すと先端が熱くなる。それを、少しだけ開けていた窓からおじさんに渡した。
受け取ったおじさんは持っていたたばこに火を点け、生き返った、とでも言いたそうにタバコを吸い始める。タバコなんて今まで吸ったことのない私はその臭いに少し顔をしかめてしまう。窓際でプカプカされると車内もそのタバコの臭いになる気がした。

9階から見える景色

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