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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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「高橋知幸君、こちらがお隣に住んでいる古川春香さん」
「古川です。よろしくお願いします」
 大家さんに紹介されると彼は軽く頭を下げた。年頃の男の子に似合わず、大地をなぞるような声と、発せられた言葉一つ一つが確実に耳に入り、脳が正確に認識する。程良く切り揃えられた髪の毛が動く。
「古川です。よろしくお願いします」
 顔を上げると高橋君は私の視線を避けるように、斜め右下の地面を懸命に見ている。足元には白けた顔付きの桜が落ちている。
「荷物、上に運んじゃいましょうか。知幸君、先に部屋行っててね」
 大家さんは目を細めて軽く背を丸めると自室に戻っていった。私は溜まった洗濯物を思い出し、高橋君に再度お辞儀をして背を向けた。アパート敷地内が膨張しているように見えた。隅に枯れたように咲いている草花が新鮮に映った。
「あの」
 心地良いとまで思わせる彼の声が後ろから降ってきた。振り返り、目を丸くさせる。最初は驚きの意味はなかったが、彼が手にしているものを見て驚きに変わった。
「あの、別に歓迎会開かなくて良いです」
 しばらく無音の状態が続いた。心臓の奥から汗がにじみ出る。何と弁解しようか、言葉が出てこない。初めて見たような高橋くんの顔は、顔の皮膚の下に穴が空いているようだった。何も無いような、全てが詰まっているような、そんな穴。自分の浅はかさを見透かされたとも違う、もっと人間の根源的な部分を見られている。ような気がした。
 私が何も言えないでいると、彼は横を通り過ぎて空虚に足音を響かせて階段を上っていく。彼が部屋に入るまでの間、ぼうっと立っているみすぼらしく情けない自分を味わいたくなかったのでとりあえず一度道路に出た。行く当てはなく、コンビニで飲み物を買うことにした。
 アパートの敷地内は静けさを取り戻し、私は無事部屋に戻れた。冷たくぬれているレジ袋を机に放り投げ、溜まった服を洗濯機に突っ込む。人差し指で力任せにボタンを押し、甲高い音を聞き流す。
 それからさらに数日。日取りが上手くいかなかったのか、高橋くんが直接大家さんに断ったのか、歓迎会はまたの機会にすると連絡がきた。そして、彼の回覧板の「最近起こった良いこと」の欄はいつも空欄だった。見て見ぬフリ。この状況を表すとしたらこの言葉が一番ふさわしかった。けれど直接、高橋くんと話す機会もないし、このまま適当に過ごすのが楽であることは自明だった。
 ある日、学校が終わりアパートのすぐそばまで帰ってくると、笑い声が聞こえてきた。誰かが立ち話でもしているのかと思って普段通りに帰ると、面くらってしまった。高橋くんとハルさん、そしてモタイさんが建物前で話していたのだ。初めて会った時に少しも笑わないでいた高橋くんが顔を崩していたのだ。笑うと、端正に配置された顔のパーツが意外にも崩れる。

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