お隣さん
私は歩きながら、薄暗い玄関先で眠っている大家さんの几帳面な文字を頭の中で思い出す。歓迎会か。私がここに入った時も開いてくれ、その時は「良いところを選んだ」と安堵していた。しかし今思い返すと、清子さんと大家さんしか来てれくれなかったことがこのアパートの全てを表していたのかもしれない。
私が入居したのは一年前。大学一年生になる直前の三月だ。春から通う大学の周辺を下見していた時に偶然見つけたのが良かった。一階の部屋は埋まっていたので二階の端の部屋に決めた。一階にはフリーターのハルさんと同じくフリーターのモタイさん、社会人の清子さん、それに大家さんが住んでいる。インターネットに広告を掲載していないせいかこの一年間誰も入ってこず、誰も出て行かなかった。さくらアパートには空気が停滞していた。
ハルさんとモタイさんは何かしらの卵らしい。ハルさんが一眼で写真を撮っている姿を見たことはあるが昼間の活動は一切知れず、学校終わりにアルバイトに向かう彼女とすれ違う程度だ。モタイさんは美容師を目指していると一回聞いたことがある。清子さんとはたまにご飯を食べに行く仲で、社会の厳しさを教えてくれる。奢ってくれるのは有難いが、なんとなく高い料理は選んではいけない気がして気遣いが面倒だと思うようになってきた。
それから何も起こらない日々が過ぎ、新しい人が来る日になった。歓迎会はというと、ハルさんとモタイさんは「予定が分からないので皆に合わせる」とのこと。清子さんは「土日なら恐らく大丈夫、早めの決定をお願いします」。私は「日曜の夜ならだいたい大丈夫です」と書いた。本当は平日の夜も空いているが、清子さんは土日しか空いていないだろうなと見越しての書き込みだった。
学校から帰ると、アパートの前に丁度タクシーが停まっていた。段ボール箱が一つ入っているトランクが開きっぱなしになっている。見上げると私の部屋の右隣りのドアが開かれ、中の壁が見える。自分の部屋と全く同じ色の同じ壁。今まで誰にも使われずに、誰の目にも触れられずにいたのだ。それと同時に違和感を感じた。自分の部屋と全く同じなはずなのに、まるで全然違う場所のように感じる。
すると中から大家さんともう一つの人影が出てきた。新しい入居者と思われるその人は全身黒い服を着ていて……制服だ。顔まではよく見えないが、落ち着いた雰囲気の男の子だ。大家さんの後を大人しくついていく。やがてタクシーの前まで来た。大家さんは私に気付くと、「あら」と弛んだ頬を横に広げた。後ろから男の子が出てきてトランクから段ボール箱を下ろし、タクシー運転手に窓越しに挨拶をしていた。
お隣さん