テーマ:一人暮らし

おかえりなさい

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 電車が通過する。
 部屋の中には子ども声と電車の音、女性の足音がしていた。
 「いかがですか」
声をかけられ、私はすぐに言葉が出なかった。
 「ここに、します」
気づくとそう言っていた。決して切羽詰まっていたわけではない。すぐに答えを出せと言われたわけでもない。でも、私は今すぐに返事をしなければいけないと直感で思った。窓の外からどこかの家が作っている夕食の準備の匂いがしていた。
 それから、女性と一緒に一階にいるおじいさんのところに挨拶に行き、今度は
 「お世話になります」
と私は告げた。
おじいさんは
 「ああ、うん、そうか、よかった」
と言い
 「こちらこそよろしくお願いします」
と丁寧な言葉を返してくれた。不動産屋まで帰る道中、女性は周辺のスーパーや便利そうな場所、様々な情報を私に教えてくれた。
 新しい生活に必要なもの。
 生きていくために必要なもの。
 それらを一気に吸い込むように私はその話を聞いていた。

 簡単な手続きから本格的な契約に到るまで思っていたほど日数はかからなかった。私は昌代さんにお休みの申請をして、引っ越しの準備を進め、仕事にも精を出した。

 部屋の引渡しの日、私は鍵を受け取り、部屋に向かった。室内に入り、窓を開ける。
小さな揺れがやって来て、電車が通過する。その音は耳に優しく、いつまでも聞いていたかった。
 「大丈夫」
私は何もない部屋の中で言った。声は反響して私の胸に刺さる。
 遠くでは、子どもたちに帰宅を促すメロディが響いていた。
 「ただいま」
 「おかえりなさい」
 そんな会話が今にも聞こえてきそうだった。

おかえりなさい

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