テーマ:一人暮らし

十月の訪問者

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 電車はホームを離れ次第にスピードを増してゆく。車窓に大きな川が飛び込んできた瞬間、明子は大きく息をのんだ。
どうやらこれが、佐保の言っていた多摩川であるらしい。秋の日差しを受けて燦然ときらめく水面――。遠く見下ろす河川敷にススキが揺れている。穂をこすり合わせるさわさわという音が、電車が刻む走行音の隙間に聴こえてえてくるような気がして、明子は思わず耳を澄ませた。
娘に会うのは久しぶりだ。三月に大学を卒業したばかりの佐保は、東京の世田谷区にある職場の近くに部屋を借りて暮らしている。家を出てから、顔を見たのはたったの一度。あれは五月の大型連休だったか。

 娘の一人暮らし――。それは明子にとって突然降ってわいた出来事だった。千葉県の実家から佐保の勤める会社まで、片道およそ二時間。近くはない。けれど、通えない距離ではない。だから、「家を出て一人でやっていきたい」と言われたとき、明子はあまりいい気がしなかった。
「わざわざ家を出ることないじゃない。東京暮らしは何かとお金がかかるでしょうし」
「そりゃ、東京はそうよ。だからね、神奈川県に住むつもり」
すでにリサーチしていたらしく、佐保は明子の知らない駅名を口にする。
「たったの一駅だけど、多摩川を渡った向こう側なら、東京よりも家賃相場が低いみたい」
「無精なあなたが、一人暮らしなんてできるのかしら。考え直したら」
さすがにむっときたらしい。できるわよ、と佐保はきっと明子を睨んだ。「お父さんだって、片道二時間なんて無謀だと思うでしょ?」
新聞を読みながらやりとりを聞いていた夫の和宏は、「うーん、そうだな……」と力なく言ったきり押し黙ってしまった。
佐保はこれを、無言の肯定と受け取ったようだ。さっさとアパートを契約すると、荷物をまとめ、引っ越し業者を手配して新天地へと旅立った。すべてが終わるのに、一か月とかからなかった。ずいぶんあっけない娘の巣立ち――。明子はいまだ、現実になじめないでいるのであった。

 電車が速度を落とし、車掌の声がスピーカーから流れる。
「まもなく到着いたします……。お降りのお客様は……」
明子は網棚に乗せていた紙袋をそっと下ろした。中身はタッパーに詰めた手製の手料理である。茄子の煮びたし、海苔入り出汁巻き卵、酢豚、ブロッコリーとほたてのマヨネーズ和え、アジの南蛮漬け、そら豆のごはん……。どれも佐保の大好物ばかりだ。
紙袋を胸の前に抱えてエスカレーターで改札階へと降りてゆく。

十月の訪問者

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