テーマ:お隣さん

隣の巣穴の豆柴くんへ。

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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春の訪れがあった。

東京での一人暮らしも15年を超える。二人暮らしになった時期もあったけど、タマシイが枯れるほど泣いて、今はまた一人暮らし。
東京の人は弱者に冷たい、と思い込んでいた時期もあったけど、落ち着いて相対せば、そういう人ばかりではないことも知った。
禍福は糾える縄の如し。そんな15年。

ピンポーン。
朝から高らかにインタホンが鳴った。
小さいながらエントランスにオートロックがあるマンションで、直接玄関のインタホンが鳴ることは稀。おかげでうちの中は堅牢な要塞の如く守られているの で、この小さな城の中では油断しきった格好でウロウロするのが私の常になっていた。都会仕様にチューニングした仮面を外せる唯一の場所、と言っても良い。

前夜、本を読みながら寝落ちした私はつい今しがた朝風呂し、びしょびしょだった。もふもふのグレーのフリースにOAメガネ。もちろんスッピン。
どう贔屓目に見ても濡れそぼったオールドイングリッシュシープドッグ。先日久しぶりにかけたゆるふわパーマは濡れて好き勝手な方向にはね、それを増長している。

はて、この格好は人様の前に出るのにセーフかアウトか?2秒逡巡し、インタホンに応えた。

「となりに越してきた〇〇ですー」と少年の声がした。
「はあ」
私はマヌケな返事をインタホン越しに返した。

宅配便のおじちゃんならともかく、初対面の人に挨拶できるような格好ではない。
が、今更居留守も使えぬ。・・・あー・・。

仕方なく出た。
濡れそぼったオールドイングリッシュシープドッグのまま。

扉の前には、豆柴がいた。
ちんまり、きらきらした目の豆柴くんが。

そして。
豆柴は引いた。
私を見て明らかに物理的にも精神的にも後ずさった。

初対面が苦手な私だって、怯えた豆柴を威嚇する趣味はない。
が。
後ずさった豆柴にどんなに微笑んだって後の祭り。しかも格好はオールドイングリッシュシープドッグ。
笑っても見えない。


豆柴は怯えながらも、一生懸命お母さんに教わったであろう挨拶を噛まずに言い、挨拶の品を押しつけてきた。
そして巣穴である隣の扉に逃げ帰った。
ごめんってば。

そうか、春、なんだな。

受け取ったどこかの田舎のデパートの包み紙を眺めながら感慨深く思った。
どれほど沢山のお母さんがこの時期巣立つ我が子の為にこれを用意するんだろう。

東京で何度か引越した私は、この引越しの挨拶、という習慣が東京ではすでになくなってきていることを知っているが、田舎に住む多くのお母さんはこのことを知らない。

隣の巣穴の豆柴くんへ。

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