テーマ:お隣さん

ゆうひと真珠と小さな秘密と

この作品を
みんなにシェア

読者賞について

あなたが選ぶ「読者賞」

読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

閉じる

どこに帰るつもりなのだろうかと半ば不安に思いながらも、歩きはじめた方向はわたしたちの住むアパートの方だった。どういうことだったのかわからないまま首を傾げて帰り着くと、おばあさんは声掛けてくれてありがとうね、といって小さく頭を下げて自分の部屋へ入って行った。
わたしは何だか腑に落ちない気持ちで自分の部屋のドアノブを握った。反対側のお隣さんの台所の窓が少し開いていて、部屋に入る前、そこから何だか甘じょっぱい、いい匂いがして大きな唄声が一緒に流れてきた。

それから数日後、また同じところで隣のおばあさんを見た。交差点の花壇のところに座っていてこの間と同じようにぼんやりとそこを眺めていた。声を掛けずに何てことない顔で通り過ぎようかとも思ったけれど、この間、一緒に帰ったことでお互い顔もはっきりわかってしまっているし、何となくそう出来なくて足を止めて、こんにちはと声を掛けた。今日は泣いていなかった。でもその目にはうっすら涙が溜まっているようにも見えた。
あら、こんにちは、とおばあさんはにこやかに答えた。挨拶をしただけで、一人でさっと帰ろうと思っていたけれど、おばあさんはよいしょっと立ち上がり、帰りましょうかとあの日と同じように帰路へ歩き出した。
仕方なく後ろからついて行くようなかたちでわたしも続いた。この間のことを何か聞いてみようかとも思ったが、ちゃんとおうちはわかりますか、とか呆けちゃっていませんよね、とか言葉にするとどんなふうに何を聞いたらいいのかわからずに悶々としているうちにすぐにアパートに着いてしまった。
じゃあ、といって自分の部屋へ入ろうとしてバッグから鍵を取り出していると、おばあさんはよかったらお茶でも飲んでいかないかしら、といった。わたしは意外な誘いに驚いて思わずじっとおばあさんの顔を見つめてしまった。おばあさんは顔色ひとつ変えずに、こないだのお礼よといって微笑んで小首を傾げてみせて自分の部屋の扉を開けた。
間取りは全く同じはずなのに、入ってみるとそこは全然違う家みたいで、自分の部屋がすぐ隣にあるのが不思議な感じだった。壁ひとつでこうやって違う人の全く違う部屋があるのかと思うと何だか変な感動を覚えた。
おばあさんが淹れてくれた緑茶は本当に美味しくてそれで一気に気持ちはほぐれてしまった。小さいけれどとても上品な甘さの和菓子を口に運びながら緑茶をすすっていると、おばあさんは徐に話しはじめた。

ゆうひと真珠と小さな秘密と

ページ: 1 2 3 4

この作品を
みんなにシェア

5月期作品のトップへ