ナイト
こんなふうに毎日毎日、幻肢痛のようにナイトの存在を感じる。けしているはずのない通勤電車の中でまでナイトの呼ぶ声が聞こえたりする。そのたびにハッとするのだ。その瞬間だけは「あ、ナイトが呼んでいる」と思ってしまうのだ。
換気のために掃き出し窓を開けたとたん、足元をするりと黒い影が庭へと抜けていった。「ナイトが逃げた!」と焦るが、すぐに気のせいだと思い直す。これから何度こんな気分を味わうのだろう。苦しいような、それでいて錯覚でもいいからナイトを感じていたいような複雑な思い。
北川さんの家の明かりが消えたのを機に、私も窓を閉め、カーテンを引いた。
朝早くからアパートの前を掃く音がする。北川さんはとてもきれい好きで、いつもこのアパートの周りには葉っぱひとつ落ちていない。
シャッシャッと小気味いい箒の音を聞きながら勢いよくカーテンと窓を開け、朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
「おはようございます!」
威勢のいい挨拶にビクンと肩が跳ねあがる。
「あ。驚かしてすみません……」
庭の向こう――北川さんの家の縁側に若い男性が立っていた。若いといっても私と十歳は離れていないだろう。なにかスポーツでもやっているのかよく日に焼けていて、元気が服を着ているようだ。しかしなぜそこに?
そこで私ははたと気付く。洗いざらしのTシャツにショートパンツ、そして寝癖のついた髪という自分の姿に。私は挨拶も返さずに部屋に引き返した。
彼の方は気にもとめていないらしく、「お。猫くんじゃん」と野良猫に話しかける陽気な声が聞こえている。私はなぜかその声を聞きながら、開けたばかりのティッシュの箱をかかえてひとしきり泣いてしまった。ティッシュ代もばかにならないな、なんて頭の片隅で冷静に考えているのが自分でもおかしかった。
「あらぁ。南さん、寝不足なの?」
北川さんが私の顔を覗き込む。朝から大泣きをしてしまって、目元を冷やす時間もなかったからひどい顔だ。「ええ、ちょっと……」などと言葉を濁し、顔をそむけつつ、話を逸らす。
「お孫さんが来ているんですか?」
「ああ、拓馬くんね。これからうちで暮らすのよ。よろしくね」
「え? そうなんですか? 遊びに来ているんじゃなくて?」
「そうなのよ~。若い子のごはんなんてなにを作ればいいのかわからなくて困っちゃうわ……」
北川さんはとても困っているようには見えない笑顔で首を振る。
拓馬くんは今年の春に大学生になったが、自宅からだと乗り換えが二度あり、その乗り継ぎが上手くいかないとかなりの時間がかかることがわかったらしい。それがここからだと乗り換えなしで通学できる。そんな理由から同居というか、下宿のような生活が始まるということだった。
ナイト