テーマ:ご当地物語 / 架空の町

架空の町

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 その日、変わりのない業務を淡々とこなしていると、なにかがちがうことに気がついた。だがそれがなんなのかはしばらくわからなかった。自分だけが別の世界に迷い込んでしまい、そのことを知っているのは僕ではなく、僕を見ているだれか――たとえばあなた――そんな感じだった。
 二階の開架に返却本を陳列しにいったとき、違和感の正体がわかった。
彼が机に顔を近づけていて、最初は居眠りしているのかと思った。窓から陽が彼の上にだけもろにあたっていたので、もしかしたら倒れているのかもしれないと。僕は声をかけようとして、くちびるからぶら下がりかかった言葉をあわててつまみ取ってポケットのなかに入れた。
その言葉は架空の町の人たちと別れたいまも、そしてこれからも死ぬことはなく、彼に向かおうともがくのだろう。
彼はなにかを書いていた。それも凄まじい勢いで。だが、なにかが紙に書かれるときの音はしていなかった。彼は顔を原稿用紙ぎりぎりにまで近づけて、ペンで書くというよりは目で書いているかのように。瞳のなかに映る景色を、紙に写し取らせようとでもするかのように。当然、僕は彼に興味をひかれたし、あわよくば彼がなにを書いているのかさりげなく見ようとした――後に、さりげないどころではなく見ることになる――が、そのときは館内放送で呼び出されたためにそこを離れた。
彼に感化されたのか、その日は僕も一種興奮状態にあった。倦怠に穴を開けるように業務をこなし、時間の感覚を変えていった。
もう閉館間際だと気づいたときには、気づいてしまったためか、アドレナリン過多の反動がきて、僕はきのう以上に虚しくなってしまった。頭のなかでだれかが喫煙しているようにしんどくて、重たい足で彼のところへ向かった。どうしてか、彼はまだ書きつづけていると思っていた。僕は、それが彼の仕事だとでも思っていたのだろうか。
彼はもう帰ったあとだった。
それから彼は現れなかった。
彼に孫がいて、孫の誕生日会に顔を出した折りに腰を痛めて入院、あるいは息子、あるいは娘夫婦と同居することになったのだろうか、なんてことは考えなかった。代わりに、彼は引っ越してこの町から出ていってしまったのだろうかと考えた。そしてそれよりもずっと強度のある想像――死んでしまったのだろうか。
彼がいなくなったことで、僕の生活は彼の存在を知る前にもどったのだと、思い込もうとした。けれど、できなかった。彼がいないということが、彼がいたこと以上に胸にのしかかり、渦を巻いた。ある日僕は、彼が座っていた席に座ってみた。なにかひらめきが訪れるのではないかと心のどこかで思いながら。だが、なにも感じなかった。そのことが悔しく、無理やりにこう思った。古びた図書館の、乾いた紙とほこりのにおい、それが彼の体臭のようだ。

架空の町

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