テーマ:ご当地物語 / 岐阜県岐阜市

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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「ここではまだ女の子にお茶を運ばせてるのかい?」と彼は訊いた。
「次長でいらっしゃいますからね。当たり前ですよ」
「役職が名前だけだってことは知ってるだろう?」
「昼間はみんな出払ってしまう会社ですもの、私、寂しいんですよ」
「それじゃ、昼間会社にいる俺が馬鹿みたいじゃないか」
「ひがむものじゃありませんわ。前の次長は結構楽しんでましてよ」
「あの人は謝罪の神様だもの。いざとなれば役に立つから、それで良かったのさ。俺はそんなことできないよ」
「昔は大きな仕事をしてたって噂も聞きましたけど・・・」
「さー、全く覚えがないな」
 さすがに不毛なやり取りに気づいたのか、前田洋子は自分の席に戻ってしまった。予想通りだったわとでもいう顔をしている。もうお茶は持って来ないだろう。
「ちょっと、出かけてくる」と栄吾は言った。
「行き先は予定のボードに書いておいて下さいね。それと今週末、次長の歓迎会だそうですよ」
ボードには最近知った取引先の名前を書いた。目的は転勤の挨拶ということにしておく。名刺ぐらいは受け取ってくれるだろう。そこから、先日お城から見えなかった一角に向かうだけである。
社有車が出払っていたのでバスに乗った。バスに乗ると外の景色が気になるので大抵は首を巡らして外を見る。新幹線や社有車での移動が当たり前の頃には、これほど外の景色が気にならなかった。外にもう一人の自分がいるような気がした。その人物は若い頃の自分の面影を宿している。彼は今の自分を探して、あえて外にいるのだった。もう自分には探されるほどの価値はないのだと栄吾は彼に伝えてやりたかった。
 突然の訪問にもかかわらず、取引先の部長は三十分ほどの雑談に応じてくれた。
「へー、そんなに転勤してるんですか。地方の企業の社員から見たら驚きですよ。でも、もう落ち着いても良い頃じゃないですか?」と相手は屈託がない。
「私もそう望みながら、ここまで来てしまった感じです」
「どうですか。残りの人生をこの町で送るというのは?」
「それもいいですね。私はこの町、好きです」
 社交辞令だと思われたのか、相手の笑いは心なしか空疎だった。
 取引先を後にして、山際の通りと次の一本、さらに次の一本の通りを歩いた。この辺り一帯は明治二十四年の濃尾地震の際に一度焼失している。そのため明治二十四年以後に建てられた建物が中心だったが、それでも古いものは百年以上経っている。町家風の建物を見つけては足を止めて興味深く観察した。町家は様々な長短があり、高低差があるので一つの図形では捉えられない。見る内に意識がそこに吸い寄せられていく。その内の一軒がカフェを営んでいたので入ってみた。短冊形の町割りのせいで間口はさほど広くないが、小物売り場やカフェ、用途不明の部屋などが連なり、普通の家の感覚では底の知れない建物だった。

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