テーマ:ご当地物語 / 岐阜県岐阜市

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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「もちろんさ。大体の話は聞いたから後は一人で歩いてみるよ」と栄吾は答えた。
 二人を見送って、栄吾も再びアーケードの下を歩きだす。広い通りを渡って、商店街の西側にあるアーケードに向かった。そこが嘗ての遊郭の跡であることを、先刻アキの兄が示唆したのである。古い水路に沿った街で入口に大門があったという。大人ならわかるでしょうという面持ちでアキの兄は言った。水路は鉄漿溝の役割でも果たしたのだろうか。
 栄吾が最初に付き合った春江は、何かに囲まれているような気がすると言うことがあった。そこから出られないのだと何度も説明されたが、彼には春江の感情の実態がわからなかった。その内に薄々気づいたのは春江と彼女の母親との確執だった。春江は一人娘だった。そのせいで必要以上に母親に拘束されてきたという。春江の言い分に従えば、彼と半年以上暮らしても解放された気がしなかったという。確かに荷物の放置を含め、彼は自分が決めたルールに忠実であろうとする傾向が強かった。そのルールは無意識のうちに春江にも及んだのかもしれない。それが囲いである証拠にそれから三十年経つ今も彼自身がルールの内に閉じ込められていた。
 通りを渡ったアーケード街は平凡なキャバクラ通りだった。遊郭は最早存在しないのだから当然ではあったが、異界の面影は既にない。だが通りの末端まで行き着いたところで、栄吾は自分の不明を恥じた。敷地の区画割の中に遊郭の痕跡が潜んでいた。アーケードの末端に沿う通りが明らかに川の蛇行の形をしている。その通りが自在に曲がるので、そこにつながる道路も表の通りと斜交して交わってくる。この自在さは人のつくる道路のものではない。道の下に水路があると考えるべきだろう。いわゆる暗渠である。その水路こそ遊郭の鉄漿溝である。栄吾の耳には、既にそぞろ歩きで遊郭に向かう人々の足音が聴こえていた。
 休暇を終えて数日が過ぎた。まだ片付かない荷物が半分以上残っていたが、仕事をするには支障がない。栄吾の机は支店長の机と微妙な距離を置いて、横並びになっていた。狭いオフィスだからもう少しで壁の隅になる。次の転勤がないのと同様に昇格も表彰もない距離だった。つまり飼い殺しということかと、座り心地が良いわけでもなく、悪いわけでもない椅子に座って考えた。数回顔を合わせただけの女子社員が少し嬉しそうな表情でお茶を運んでくる。目の焦点が合う距離まで近づいたところで、名札の名前が前田洋子であることを確認する。

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