花が咲く街
「あの時と一緒だ。」つぶやいた咲子の脳裏には青い青い海が浮かんでいた。
もう何年前になるだろうか、かつて咲子は趣味で海に潜っていたことがあった。水深10メートル程の海中で、浮きもせず、沈みもしない中世浮力を保ちつつ、全身をクルリと反転させ、ラッコのような姿勢で空を見上げるのが大好きだった。海の中からみる空は自分の周りのキラキラとした海のブルーと重なり合い、本当に美しかった。そしてやはり眺めているとそのブルーの世界に引き込まれていった。まわりの音も遮断されて、自分の呼吸の音だけが響いている自分だけの世界。なにもかも忘れられた。
その時と同じだった。色こそは違うが、咲子だけの世界が今ここにある。
「この場所が癒しのパワースポットになるなんて、ちょっと皮肉。」咲子はもう一度ちいさくつぶやいた。
17年前、咲子はこの街を離れた。なぜならこの街がきらいだったから。なにもかもがやぼったくて、真面目すぎて融通が効かない近隣の人たちとの関わりもうっとうしかったし、面倒くさかった。そしてなにより母が嫌いだった。
咲子には兄がひとりいた。兄は咲子と違って、小さな頃から賢く、気が利いていた。そして、とにかくやさしい性格の少年だった。母の日には必ず道端に咲く、すみれなど摘んで、母親を喜ばせた。母が山野草など小さくて可憐な花が大好きだったのを知っていたかどうかはわからないが、兄の行動はすべて母の気持ちを和ませた。当然、母は兄を愛おしく思い、かわいがった。しかも当時の母にとって兄は大切な跡取り息子であり、唯一の自慢の我が子であった。兄に対する気持ちが強すぎて、母は咲子に対しては残酷だった。幾度となくそんな兄のやさしさを、幼い咲子に自慢気に話して聞かせたのだ。咲子はそのたび気の利かない自分が責められている気分をあじわった。またあるときは、兄が生まれた時のことを、『とてもきれいで,玉のようだった。』と誇らしげに咲子に話して聞かせたことがあった。まだ幼かった咲子が『わたしはどうだったの?』と尋ねると、母はすかさず『汚い子だった。』とはっきりと言った。平気な顔で娘が傷つくことを言えてしまう人だった。
母の中に娘はいなかった。だからこそ無口で、ぼんやりとしていて、何を考えているのか分からない咲子の、何もかもにイライラさせられていたのかもしれない。どんなときにも咲子を正面から見てくれたこともなく、話を聞いてくれたこともなかった。母の目には咲子は映らなかった。
花が咲く街