灯のともる場所で
「ちゃちゃちゃちゃーん、ちゃちゃちゃちゃーん」
子供達は、鼻歌を歌いながら指揮棒を振る真似をする。しかしクラシックに詳しくない馬波が聞いても、その曲はバッハの作曲ではないとすぐにわかった。多分これはベートーベンだ。
「おら、油売ってっと遅刻するぞ」
馬波はそう言って、しっしと彼らを追い払うような仕草をする。
「やべっ! そういえば今日、当番だった!」
「急げっ!」
小学生達はそう言って慌ただしく走り出す。「じゃあな、バッハ!」と言って手を振ることも忘れない。馬波は返事をしなかったが、箒を持っていない方の手をゆるゆると振った。彼の口元は少しだけ笑んでいる。馬波はこういう時間が、決して嫌いではなかった。
学生連中の登校ラッシュも一段落した午前九時。馬波はレジに立ちながら、くぁ、と欠伸を噛み殺す。店内にかかるFMの選曲がどうにも馬波の好みに合わなくて、気分がのらないのだ。
馬波はバックヤードに入ると、おもむろに店内放送の音源を切り替えた。自分のipodを、これまた自前のコードやらアンプやらに接続し、お気に入りのプレイリストを再生する。
すぐに流れ出すのは、彼がこよなく愛するオルタナティブロックの隠れた名曲だ。腹の底から響くような低音に合わせて、馬波の頭は小さく揺れる。気に入ったフレーズが流れると、鼻歌が漏れることもあった。
オーナーである広重のジジイに何度どやされても、馬波は好きな音楽をかけることをやめない。馬波にとって音楽は、例えば身体に活力を与える酸素のように、どう頑張っても必要不可欠な存在だったからだ。
馬波が気分よく頭を振っていると、ピンポーン、という間の抜けた入店音が店内に響いた。つられて顔を上げ、入り口の方に視線をやる。
「らっしゃーせ」
「よう、ケイちゃん。今日もご機嫌だねぇ」
やってきたのは、店のはす向かいに住んでいる望月さんだった。彼も年の割にはなかなかいい音楽の趣味をしていて、しばしばDJ馬波の選曲に合わせて鼻歌を歌っているクチだ。何だかんだと長居をするので、「煙草を一箱買うのにどれだけ時間かかってるの」と、よく奥さんに叱られるらしい。
「俺がご機嫌じゃなかった日なんて無いでしょーがよ」
馬波はそう言って口角の片一方を持ち上げる。
「確かになぁ」
望月さんはそう言ってカカカと笑った。
「煙草でしょ。12番でいいっすか」
馬波がそう尋ねると、望月さんは「いやいや!」と大きい声を上げた。
灯のともる場所で