熱海ストリートブックタウン
「ひな祭りをするって、三月も終わるのにお雛様出したんですか。」
「そうなんです。さっき母と出したんですよ。そういえば先生って五人囃子に似ていますね。」
「気持ち悪いということですか。」
「違います。人形みたいな可愛らしい顔ってことですよ。」
私は慌てて釈明した。確かに、五人囃子は人によっては不気味に感じるかもしれない。しかし、私の家の五人囃子は皆ニコニコとしており、上品な口元からは白い歯がこぼれて皆可愛い。
「ありがとう。でも可愛いって、僕もう三十一歳なんですよ。」
私は前につんのめりそうになった。年上だった。でも、高校生くらいにしか見えない。どうしたらこんなに若くいられるのだろう。おとぎの国の住人だからか。いや、現実的に温泉効果か。わからない。私が精いっぱい言葉をまとめて「二十歳そこそこにしか見えませんでした。」と言うと、坊ちゃんは「熱海は時間が流れるのがゆっくりだからかもしれませんね。」と笑った。坊ちゃんと別れたあと、はちみつ混じりの空を見ながら、昔高校の古典の教師が卒業前に言った言葉を思い出した。
「大人になると、忙しくて時間があっという間に過ぎていくと人は言います。でも、桜のつぼみがふくらんできたとか、アジサイが色づいてきたとか、夏のにおいがし始めたとか、そういう季節の移り変わりに毎日注目しなさい。そうすれば時間はもっとゆっくり流れます。」
今ならその言葉の意味がわかる。私は、これからはそうやって暮らしていきたいと切に思った。カレンダーではなく、風物を暦にして。
夕飯時、食卓に食べきれないほどの寿司や刺身を並べて女二人でひな祭りをした。食卓の上のライトに照らされて、どれもこれも飴細工のようにつやつやしている。味は言わずもがな、非常に美味しかった。
「お母さんはいつでもこの特上の寿司が食べられるね。うらやましい。私も熱海に住もうかな。」
半分冗談、半分本気で言うと母は本気ととったようだ。
「自分で家を借りて、経済的にも自立するならいいわよ。」
もちろんだ。女の自立にこだわる母らしい返事だが、私がそう思う理由は別にある。母と二人でこの家に住んでいたら新しく恋人ができても呼べないからだ。ガサツなところのある母は、恋人が来ても平気でパンツをつるしたピンチハンガーを持ってリビングの前の中庭をがに股で横切ったりするだろう。だから、住むなら絶対に別の家に決まっている。仕事は、専門職だから三島まで行けば需要はあるだろう。半分は冗談だったのにいつの間にか本気で考えている自分に気がついた。
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