テーマ:ご当地物語 / 熱海

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「土地に気に入られるって、あるみたいですね。僕、熱海には気に入られたのかもしれないです。」
 その言葉にちょっとハッとする。さっきの虹はなんだか熱海に歓迎された気がしたからだ。体も回復してきたし、きれいな日の出や虹も見られたし、熱海との相性はいいのかもしれない。土地との相性なんて今まで考えたこともなかった。東京の大学を卒業して、当たり前のように東京で就職した。その時は最善の選択をしたと思う。社会に出て働き始めるというだけで精いっぱいだし。しかし、今は違う。最近、東京での生活に行き止りのような閉塞感を感じていたのも事実だ。朝に感じた思いが再び頭をもたげた。私がしたい暮らしはどんなだろう。そろそろ考えてみてもいいのかもしれない。すると突然、私の前に無限の選択肢が並んだような気がした。そうか、私はどこへ行ってもいいし、私がしたい暮らしをしてもいいのだ。坊ちゃんは急に顔を輝かせた私を見つめてニコニコしていた。
「昨日より顔色がとてもいいですね。何かいいことありましたか。あ、コーヒーなら僕の店の通りにあるコーヒー屋さんが美味しいですよ。熱海にいる間に飲んでみてくださいね。じゃあ。」
そう言うと鍼灸院の方角へ歩いて行った。
 家へ帰ると母がなにやら大きな箱を出している。
「おかえり。」
「ただいま。さっき鍼灸の先生に海辺で会ったよ。何かに似ていると思ったら五人囃子だった。」
「あら奇遇。今お雛様を出していたの。もうすぐ四月だけど、久しぶりに出してみようかと思って。桃の節句を過ぎても人形を出していると婚期を逃すとか言うけど、どうせ逃しているしいいでしょ。それとも裏に向けておく?」
「別に逃してないし。全員裏に向けていたら不気味だからちゃんと出そうよ。」
 人形の頭部を包む紙を丹念に一つ一つ取りながら、こんなふうに母とお雛様を出したのは何年振りだろうかと考える。仕事が忙しく、半分男のようだった母はこういう行事を嫌った。やりたいなら自分で出しなさいと言われ、小学校の高学年からは七段飾りの土台を父に組み立ててもらったあとは自分一人で出したりしまったりしていた。だからこの紙も小学生だった私が一人で包んだ紙のはずだ。私は五人囃子の顔からガサゴソと紙を取り外しながら母に言った。
「そうだった?全部忘れているわ。毎日、仕事が終わってからの家事に必死で、細かいことはほとんど覚えていないのよ。今思うとちょっとかわいそうだったわね。ごめんね。」

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