テーマ:ご当地物語 / 熱海

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三月に入ってすぐに職場でぎっくり腰になり、治療のためヨチヨチ病院通いしていたところを、今度は驚異的なスピードでママチャリを走行する学生に跳ね飛ばされた。満身創痍で毎日ラッシュにもまれて通勤しているうちに頭痛や手がしびれるほどの肩こりなど、体の不調は増し、亀のごとき風貌のおじいさん医者からひどく同情された。
「まだ若いけれど無理は禁物ですよ。三週間くらい湯治でもしなさい。」
「若いって、今年三十歳です。」
「じゃ、なおさら湯治しなさい。三十代で無理をすると後々きますよ。」
何が来るのだ。亀は、いや、彼は診断書を書いてくれたので、私はそれを職場に提出して休職を申請した。少し前の私なら休職などしなかったと思うが、今は色々なことが八方塞に感じて転地したい気分だった。
 こうして私は東京で桜が開花してお花見ムードなころ、熱海へ湯治に出かけた。湯治と言っても母の家だ。父より一足先に定年退職した母は誰に相談することもなく突然熱海に家を建て、去年から移住していた。父はまだ職場のある名古屋で働いており、連休などのたびに熱海に通っているらしい。
 熱海駅に着くと新幹線の改札の手前でおばあさんが一人転がっていた。そこに二、三人の人が駆け寄って助け起こしているのを見た。新幹線の改札を出て、もう一つの改札の手前で、再びおばあさんが転がっており、同じように救助劇が行われていた。さすがにもうないだろうと思いながらタクシー乗り場へ向かう途中、またおばあさんが一人転がっていた。今度は転びたてと見え、まだ誰も駆け寄っていない。私が困惑しながらヨロヨロ駆け寄ると、それに気づいて数名が駆け寄ってきた。皆でおばあさんを助け起こし、荷物を拾い、タクシーまで送った。その足で私が次のタクシーに乗ろうとすると、後部座席にも積み込めるほどの小型スーツケースなのに、わざわざ運転手が下りてきて後部トランクに入れてくれた。
住所を告げ、坂を下り、銀座町の有名羊羹屋の前の交差点で信号待ちをしているとタクシーの窓を一人のおじさんが叩いた。身を固くして何事かとびっくりしていると運転手は別段驚いた様子もなく窓を開ける。強盗だったらどうするのだ。私はますます身を固くし息をひそめた。すると、おじさんが聞く。
「あのー、JAはどこ?」
JAかい。途端に力が抜けた。
「JAはねー、もっとずっと先だよ。」
運転手は普通に答えている。
「ありがとうね。」
「はいよ。」
信号が青になりタクシーはまた走り出す。熱海滞在時間十分程にして私はなんとなく理解した。親切な土地なのだ。タクシーはそのまま坂を下り、御成橋を渡った。初川沿いの桜らしき木はもう緑の葉がわさわさしていた。私の視線を察したように運転手が言う。

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