夕餉
蝉時雨、とはよく言ったものだ。
降りやまない雨のように、いつまでも鳴り響く蝉の声が、わんわんと耳の中で木霊する。
ずっと黙って聞き入っていると、いつしか全身が蝉の声に縛られ、時が止まったかのような錯覚すら覚えてしまう。
そんな中で、僕は知らない部屋の前に立っていた。
303号室。
金色の番号の書かれた、落ち着いた深緑色のドアをゆっくり開けると、漂ってくるのは、家庭の夕餉の匂いだ。
「おかえりなさい。」
奥から優しい声がしたものだから、僕は、素直にその声に招かれることにした。
部屋は、ほどよく冷房が効いているのか、心地よいひんやりとした涼しさだ。
奥に進むと、そこには、優しく笑う白いワンピースを着た女性が正座をして待っていた。その前には、こじんまりとしたローテーブルがあり、2人前の美味しそうな夕餉が用意されている。
「おかえりなさい」
彼女は僕の顔を見ると、もう一度そう言った。
「ただいま」
僕もそう答えて、当たり前のように彼女の前に座る。
「ちゃぶ台みたいで、なんだか懐かしいね」
彼女は優しく微笑んだ。
ほうれん草のおひたしに、真っ赤なトマト、暖かい味噌汁、炊きたての白いご飯に、艶めくブリの照り焼き。それらがテーブルの上に行儀よく並べられていた。
「わあ、美味しそうだね」
派手ではないけれど、家庭の味、という言葉がよく似合う。好ましい食卓だった。
「いただきます」
彼女に軽くお辞儀をする。
鮮やかなガラス細工の箸置きの上の箸を手に取ると、彼女は軽く目を閉じて、そっと両の手の平を合わせて、
「いただきます」
とささやいた。
その姿は、まるで優しい祈りを捧げるかのようだった。
まずは、汁物から手をつけるのが僕の癖だった。ずいぶんオレンジ色の味噌汁だな、と思って口をつけると、中からはかぼちゃが現れた。少しだけ煮崩れたかぼちゃが、柔らかく味噌に溶けてほんのり甘い。
半分に切られて、軽く塩をふられたトマトを口に運ぶと、実に瑞々しい。
「なんだか夏らしくて、素敵な夕ご飯だね」
笑いかけると、彼女は穏やかな瞳を緩めて微笑む。
「忘れものは、見つかった?」
さらり、と黒く柔らかそうな髪が揺れる。
軽く小首を傾げて問いかける彼女の言葉に、僕は少しだけ考え込む。
「……いや、そのまま忘れてきてしまった」
彼女に言われて、僕はようやく忘れものをしたことを思い出したくらいだ。
「ネクタイを、忘れてきた」
夕餉