テーマ:一人暮らし

私を見た家

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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「もっと暖かいところがいいんじゃない?」
 雪国の冬は厳しいだろう。以前仕事の都合で通っていたが、冬は氷の世界だった。けれども母の決意は固く、私の助言など入る隙はなかった。
「温かい食べものがもっとおいしくなるからいいの」
きっと婚約者が強く希望しているからだろう。それでも母は決してそうは言わなかった。固い決意が自分の意志によるものだと私に言った。

 私は会社を辞めることにした。
早期退職が募られていて、今の家と貯金があれば、何とか生活していけそうだった。
少しのんびりしたら、また何かを始められるかもしれない。収入が半減しても、そちらの方が自分の人生にはいいだろう。今の半分の時間を働いて、収入は三分の一になってもそれがいい。
 母たちは小さな結婚式を挙げ、空気のきれいな場所に引っ越していった。
 毎日電話やメールをくれた。新しい夫との生活は私には他人事だった。他人の生活について聞かされても、現実味は何もなかった。母からのメールを眺めると、本を読んだり、映画を観たりする時間が増えていった。
 両親と妹としか暮らしたことがなかったのに、ぽつりぽつりと私は一人になった。
突然ではなかったけれど、ごく自然な形で、私に気づかれないように皆がいなくなっていったようだった。いなくなってから、これが一人暮らしかとふと思った。かつでは憧れることもあったのに。
生まれてから家族と一緒にずっと住み続けていた家に一人で暮らすのは不思議な感覚だった。
一人暮らしをすると、この二階建ての一軒家は広すぎて、掃除も管理も大変だということがわかった。母はもうずっと前から知っていたのかもしれない。ただ、頑丈なこの家は大切に暮らせば私の一生くらいは快適に暮らせるだろう。
かつて私と妹の部屋があった二階にはほとんど踏み込まなくてもいいように、一階だけで生活ができるようにものを移動し、二階は徹底的に掃除し、いらないものを捨てた。
 一階だけで暮らすようになると、ほとんどリビングで事足りた。
 誰もが寝静まった夜中の静けさなど、誰かと暮らしていたころも同じだろうに、まるで初めて耳にしたように感じた。
 常に誰かが帰ってくるような感覚があった。
 それに慣れるのには時間がかかった。頭では誰も帰ってこないとわかっているのに、身体と家に染みついた感覚は深く、根っこを奥に伸ばしていた。焦ることはない。時間だけが解決できるものだと割り切った。
父の仏壇は以前と変わらずリビングに設置してある。誰も帰ってこないのに誰かが帰ってくるような感覚の中、父の仏壇の存在は私のなかで安定していった。一人暮らしをしていても、父と私の二人暮らしのような。

私を見た家

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