テーマ:お隣さん

薬指さん、こんにちは

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 隣のベランダで爽やかくん(仮)が煙草に火を付ける。ぽっと燃えたオレンジ色の火、深く息を吐く横顔を視界の片隅に収めながら、わたしは素知らぬ振りで景色を眺めてビールを飲む。缶はまだ重い、炭酸の一気飲みは苦手。目の保養は会話するものじゃなくて眺めるもの、このちょっと気まずい空気をどうしよう。
「――吸います?」
「あ、いえ、大丈夫です」
 このご時勢安くもない煙草を差し出してくれる、その気遣いだけをありがたく受け取ることにする。そうですか、と煙草の箱を引っ込める右手に思わず目が行ってしまった。
 まだ生えてないな。わたしの薬指もまだだけど。
いつ生えてくるのかな。どうやって生えてくるのかな。
わたしと同じかな。
「これ、気になります?」
 爽やかくん(仮)が微かに笑う気配がして、わたしはやっと自分が不躾に彼の手を凝視していたことに気がついた。
「あ、の、ごめんなさい」
「いえいえ、やっぱ目立ちますよね」
 ひらり、大きな手のひらが暗闇に舞う。よろけながら飛んでいる蝶のように。
「罰が当たったんですよ」
「ばち?」
「指切りしたのに約束破ったから。針千本飲まされる代わりに持っていかれました」
爽やかくん(仮)は全然爽やかじゃないことを淡々と言いながら、静かに煙草を吸う。薄いのにふっくらと瑞々しい唇、その右下に二つ並んだ黒子を照らすように煙草がぼうっと赤く燃える。こちらを見る黒目の下にすっと入った白目のひと筋が、酷薄で儚げで胡乱な表情を彩る。昼間の印象が嘘のような、陰のある眼差し。
「約束」
――思い出した。ユキちゃんだ。
一気に記憶が蘇る。二重のぱっちりとした目、赤茶色のふわふわした髪、いつも着ていた水玉模様のスカート、顔をくしゃくしゃにして笑った時のぺこりと凹んだ笑窪。
ユキちゃんが引っ越す日の前日、わたしたちは二人で最後の冒険をしようと約束したのだ。大人たちに禁止されていた夜の街の冒険に行こうって。だけどわたしは疲れて眠ってしまって、朝になったら指がなくなっていたことにはしゃいで、すっかり約束を忘れてしまった。
だからユキちゃんはあんなに怒ったのだ。一言も口を利いてくれないくらい、手紙にも返事をくれないくらい。だからわたしは、小指を持っていかれたのだ。
まあ、すぐ生えてきたわけだけど。
「変な話してすみません。引きましたよね」
 苦笑いと共にふう、と吐く煙の甘くて苦い香りがこちらにも流れてくる。
「いいえ」
 わたしはビール缶を振る。ちゃぽん。まだまだ中身は余っている。煙草の余韻が嫌な後味に変わる前に飲み下す。

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