テーマ:ご当地物語 / 渋谷

雨の魚

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 その小さな硬い紙には「常務取締役」と書いてあった。男のつやつやに固めた髪も日焼けして尖った耳も、急に嘘くさくなったようだった。
 目当てのカフェでベリーのソースがかかったパンケーキを注文し、それを一口食べて初めて、彼女はここが『明日の神話』の男と来た店ではないことに気がついた。学部の二学年上の男で、中目黒駅前のタワーマンションの三七階に住んでいた。何日間か泊まったとき、渋谷に遊びに出てきたのだった。男はアップルパイとジンジャーエールを注文し、上に乗っているアイスクリームをどろどろに広げて食べた。彼女は男の部屋の、息さえしづらいような掃除の行き届きかたを思った。
 カフェを出ると、Bunkamuraの映画のポスターが目に付いた。ここで映画を見たのはいつだったか。一緒に来たはずの男の顔ははっきりと思い出せなかったが、眼鏡をかけていたことだけは覚えていた。音楽家の老夫婦の映画だったのだが、その男は本篇が終わってエンドロールが流れている間も、暗がりの中で静かに涙を流していた。手をつないで道玄坂を上りながら、映画の感想と解釈を男は語った。絶賛の口調だったが、悪口も少し含まれていた。充血した目を見せたがっているように、彼女の目を覗きこみつつ喋った。
 彼女は駅に向かって、ぬるい雨粒を腕や手の甲に感じながら歩いた。歩きながら、男たちの面影で埋められた自分の地図を思い描いてみた。
「赤ちゃんみたい。」
やはり誰も彼も可愛いのだった。可愛いはずなのに、自分は彼らに自分の何をも許していないような気がした。全てを与えたように見えることが、何も与えていないことと同じとはどういうことだろう。
「こういうのって、お互いがすこしずつお互いのものになるってことなんじゃないの?」
『明日の神話』の前で、男は不満げにそう言った。すこしずつお互いのものになる。その意味が彼女には分からなかった。そもそも自分は自分のものだと思ったことがあったかどうか。もしかしたらそう思う必要が無いほどに、私は私だけのものだと思い込んでいたのかも、それをどこまでも守るための方法が、もうはなから全て与えてしまうことだったのかも知れない。赤ちゃんみたいな男たち―――そうでない男など本当にいるのだろうか―――の、欲しがるままに。それならば、彼女がしてきたことは何だったのだろう。あの男たちは彼女の何だったのだろう。なんとなく分かっていたことだが、今までの男たちの誰とも、もう会うことは無いのだろう。

雨の魚

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