テーマ:一人暮らし

初夏のわたがし

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 結局その後も私はイチゴ味のわたがしのまま、「ああ」とか「んむ」とかしか言えず、友人は「よかったよかった」とくり返し、そのままお開きとなった。
 店を出ると、街は会社帰りの人でごった返していた。空には月が浮かんでいるが、まだ明るい。隣で友人が「初夏だねぇ」と言い、同じことを考えていたんだな、と思う。汗ばむことが増えた、とか、街路樹の緑が濃くなった、とか、そういうことで季節の移り変わりを意識しているつもりでも、こうして時々、改めて気づくこともある。
「あのさあ」
 慣れた足取りでさっさか駅を目指す友人を小走りで追いかけながら、声をかける。
「なに?」
「これ、いいことなのかなぁ…」
「いいことだよ。だから、よかったって言ってるじゃん」
 そう言い切る友人が、高校卒業の後の結構な時間をどう過ごしてきたのか、あまり知らない。それは彼女も同じで、私たちは仲良しだけど、具体的な情報のやりとりを殆どしない。
 でも、彼女が私にくれる優しいものはきっと、複雑な色の苦しみから生まれたんだろうな、とこっそり思っている。
「あんたは山手線でしょ。だから、ここでお別れだね」
「え? あ、ほんとだ。送ってくれてありがとう」
 黄緑色の看板に気づき、立ち止まる。じゃーね、と潔く踵を返した彼女の小柄な背中が、すぐに人混みに消える。
 ひとりに戻り、がさごそとスマホを探しながら、自分の鼓動が少し、しっかりしたのを感じる。
 何もかもひとりで出来るようになろうと思っていた。
 仕事も家事も楽しみも、何もかも自分で自分に供給できるように、必要と思えるスキルや知恵や体力を身につけてきた。
 それでも、家族や友人や仕事仲間がかけがえのないものだと認めることも、とうに出来ている。十代の頃の青臭さとはちがう、柔軟な「ひとり」を、極めたつもりでいた。
 それが、どうだろう。こんなに心許ない。
 初夏の夜風に吹かれて、乗り慣れない電車を待つことさえ、うまくできない。今にもふきとばされそうで、今にもほろほろと崩れてしまいそうで、気づくとスマホを握りしめている。
 でも、あのひとに連絡はとらない。これはすこし、がまんしている。それを自分に許してしまうと、正統な「ひとり」ではなくなってしまうような気がして自分に課している、まじないのような、幼いがまんだ。
 でも、さみしくもない。
 ひとりで電車に乗り、ひとりで買い物をし、ひとりでドアを開け、ひとりで電気をつける。ひとりが、ちっとも、さみしくない。

初夏のわたがし

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