テーマ:お隣さん

ゆうひと真珠と小さな秘密と

この作品を
みんなにシェア

読者賞について

あなたが選ぶ「読者賞」

読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

閉じる

本当は角部屋がよかった。でももう引っ越しをしなければいけない日は決まっていたし、見た物件のなかではそこが駅から一番近かった。
引っ越した日、母と一緒に両隣に挨拶に行った。右隣は三十代位の女の人で、左隣は背の小さなおばあさんが住んでいた。みんな女性の一人暮らしですから何かあったら助け合いましょうね、ね、ね、と母は両隣の人にそれぞれ手を取りそうな勢いで挨拶をした。右隣の人は困ったような顔で笑い、左隣の人はただにこにこと頷いていた。何だか恥ずかしかったが、わたしも、よろしくお願いしますと頭を下げた。
一人暮らしをする当のわたしよりも母の方がそわそわしていて落ち着かなかった。大学入学と共に初めての一人暮らし。母は最後まで反対していたけれど、さすがに片道五時間は通学出来なくて結局折れた。母のあれこれの注意に大丈夫、わかってる、を何度も口にしてようやく一人になったときは何だかほっと一息ついた心地だった。
それからお隣さんとは特に顔を合わせることもなく、ありがたいことに助け合わなければならないようなことも起こらずあっという間に数ヶ月が過ぎた。

それは、もう両隣の人の顔もぼんやりとしか思い出せないくらいになっていた、そんなときだった。
駅から二つ目の交差点の花壇のところにおばあさんが一人でぽつんと座っていた。それが隣に住んでいる人だとはすぐにはわからなかった。それどころか最初は通り過ぎてしまった。ただそこに腰を下ろしているだけなのか、はたして具合が悪くなったりしてそこにいるのかわからなかったからだ。
けれど少し先まで行って何だか気になって振り返ると、おばあさんは交差点を見て泣いていた。人通りはあったけれど足を止める人はいなくて、みんなわたしのように前だけを見て、たまにおばあさんを見る人がいても横目でちらっと見るだけで声を掛ける人はいなかった。
少し躊躇ったけれど、わたしは踵を返しておばあさんのところまで戻り、しゃがみ込んでどうしましたと声を掛けた。おばあさんはゆっくりわたしの方に視線を合わせてほんの少し微笑んで見せた。しばらく見つめ合ったけれど、おばあさんが何もいわないので、口を開こうとするとかさかさの唇がようやく動いた。
うちに帰りたくて。
おばあさんはそういった。うちに?帰りたくて?
そういわれてまじまじと顔を見て、ようやく、あっと思った。隣のおばあさんだ。うちに帰りたいって、どういうことだろうか。帰るところがわからなくなってしまったのだろうか。まさか呆けちゃっているのだろうか、と思ってにわかに眉をひそめると、おばあさんは、よいしょと膝に手を当てて立ち上がった。膝から何か白く小さく光るものがころりと転がり落ちたがそれには目もくれず、帰りましょうかといってにっこり笑った。

ゆうひと真珠と小さな秘密と

ページ: 1 2 3 4

この作品を
みんなにシェア

5月期作品のトップへ