ピーナッツバターサンド
夏休みが少し過ぎたときに退院した。もう、秋だった。夕方になって、ひぐらしが鳴くなかで〈英米文化特論〉の教室にいっても、タナカさんはいなかった。学期が変わったから履修も変えたんだろうなあと思った。「教科書、見る?」と隣の席の女の子が声をかけてきてくれた。春学期にも彼女をこの講義で見かけたことがあるような、気がする。
「あ、うん、ありがとう。助かります」
「髪、いい感じになったね」
「え?」
自分で触ってみて、髪型がリーゼントではなくてワンレングスだということに気づいた。そのことに気づいてからというもの、部屋のエルヴィスとどう接していいかわからなくなった。私はなんだか、裏切ってしまったみたいな気分になった。いや、実際に裏切ったんだ。だからいまさらなにをしても無駄で、申し訳ないような気がして、整髪料の容器にほこりがかぶった。冷蔵庫のなかに大量にあったピーナッツバターサンドの材料も、目にするだけでえづくようになってしまい、使われないうちに消費期限が過ぎ、バナナは腐っていった。
私は教科書を見せてくれた女の子とちらほら話すようになり、出かけるようになり、友だちみたいになった。
エルヴィス・プレスリーに関することを除いては、私はタナカさんとしていたことをその子ともするようになったし、タナカさんとしなかったこともするようになった。銀杏が落ちて、つぶれて、くさい公園で、夏休みにバドミントンをした女子小学生たちと彼女と私とでバドミントンをした。私と女子小学生たちの組VS彼女。彼女の圧勝で、ひとりの女子小学生は自分が負けて悔し泣きしながら「やっぱりおねえちゃんがいちばんつよいもん」といった。
あるとき、私がこういった。
「タナカって男の子が、いたじゃん?」
「ん? たくさん、いるけどね?」と彼女が答えた。
「芸人を目指してる子なんだけど」
「気になるの?」
「うん、まあ、そりゃ、ね」
「好き?」
「いや、なんていうか、師弟だわ」
「してー?」
「ああ、師匠と弟子のしてい」
「はは。なにそれ。コンビの人?」
「いや、ピンで。プレ四朗って名前で」
「え? この人じゃない?」
彼女はテレビを指さした。あのコンテスト番組がやっていて、ちょうどタナカさんが舞台袖から出てきたところだった。私は体を強張らせた。目を閉じたいとさえ思ったけど、画面は一方的に流れていった。私は泣いた。
顔が、丸めた紙みたいにぐしゃぐしゃになって、彼女をひかせてしまったけど、心臓が早くなり、アドレナリンが湧き、私のなかに大事なものがもどってくるのを感じた。
ピーナッツバターサンド