テーマ:お隣さん

くしゃみ

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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帰ってくるときに、家への角を曲がったところから、もうくしゃみの音が聞こえていた。玄関のドアを開けようとしたが、開かず、自分で鍵をかけたことを思い出した。それとも、ヤマダさんがかけてくれたのだろうか。鍵はちゃんと、ズボンのポケットのなかに入れていた。リビングに入るとテーブルの上にレゴを置いて、それから自分の部屋に、買ってきた蛍光灯を置いたときに逆だと気づいて、それからまたリビングと自室を行き来して、袋を入れ替えた。輪ゴムやセロハンテープなど、そういう生活用品をなんでも詰め込んだ棚のなかに、自室の夜光灯のために買った予備の電球を入れた。
 蛍光灯を取り換えようと思って、食卓椅子を持ち上げて電気の下に移動させた。それだけで息があがった。慎重に、ころんでしまわないように椅子にのぼる。要介護者がふたりもいるなんて悲惨だ。切れかけだった蛍光灯を外して、新しい蛍光灯を設置しようとしていたとき、リビングのドアが開いて、たぶん母を昼寝させてくれたヤマダさんが「手伝いますよ」といった。「いや、いいです。大丈夫ですから」と私がいうも、ヤマダさんも椅子を持ってきて、そのうえにのぼりながら手を伸ばした。ヤマダさんの手が私の手に触れた。「あっ」私の手にあった新しい蛍光灯が落ちて、砕け、床は砂糖をまぶされたようになった。そのときの音で、ドアを数枚隔てたところにいる母がなにか喚いたが、隣からのくしゃみの音でかき消された。
「ほんとうにすいません」ヤマダさんがそういったので、私は「いや、いいんです」といいながら、スリッパを使って破片を集めていった。向こうの端から雑巾を使って破片を集めているヤマダさんの胸元が見えている。その気まずさと年甲斐もないうれしさを消すように、私のおなかが鳴った。「あ、カレー、まだありますよ」とヤマダさんがいった。外でご飯を食べてくるのを忘れていた。「ありがとうございます。じゃあ、いただきます」「お茶いれますね」「いえ、私が。疲れたでしょう」ティファールで沸かしたお湯を急須に入れてヤマダさんに出したとき、母がきて「さっちゃん、お風呂」とヤマダさんにいった。ひとりでお茶を飲んだ。湯呑を置いた拍子に、テーブルに残っていた破片が手に刺さった。
 カレーのひと口目を食べようとすると、ヤマダさんがきた。「あのぉ、ミチコさんが、いっしょに入りたいっていってるんですけど……」「私と?」「はい」「あー。じゃあ、とりあえずお風呂場までいきますね」「お願いします」浴室の扉を開けると、母に「えっち」といわれた。

くしゃみ

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