テーマ:一人暮らし

64年のビオトピア

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 体を洗い終えると、そのままシャワーヘッドを隣のトイレに向ける。便座からタンクまでをたんねんに湯で洗い流し――このためにうちのトイレには便座カバーをつけていない――私は脱衣場兼台所に出て体を拭く。毎日まるごと水洗いしているおかげで我が家のトイレはいつもピカピカだ。「風呂トイレ別」を引っ越しの第一条件にあげる友人が信じられない。トイレ掃除をどうするつもりなんだろう? 私の疑問に答えるように、24時間365日つけっぱなしの換気扇が咳のような音を立てた。ユニットバスは人類の偉大な発明品だ。

 大学上京とともに始まったひとり暮らしで私を最もときめかせたのがユニットバスである。不動産屋のお兄さんが内見時に、「ひとつだけ難があるとすれば……」と難しい顔をして浴室のドアを開けたのが、私とユニットバスとの記念すべき初対面だった。押入れぐらいの小ぢんまりしたスペースは赤ちゃんカバみたいな薄ピンク一色で、トイレ、洗面台、シャワー、バスタブが行儀よく収まっている。トイレの上蓋に巻かれた「洗浄済」の帯が白熱電球の光を柔らかく反射していた。渋い顔の不動屋さんに続いてこわごわ覗き込んた私は拍子抜けした。そして恋に落ちた。
「私ここがいい。ここにします」
「あれえ、いいんですか?」
 私の答えが予想外だったのか、不動産屋さんのお兄さんは上ずった声を出して汗を拭いた。
「もうちょっと駅から歩けば、風呂トイレ別の独立洗面台のところもありますけど」
 こういう正直な人は信頼できるし、東京に来て初めて会った人がいい人でよかったと思う。同行してくれた父もあまり乗り気ではなさそうだったが、「まあ、お前が住みたいのなら」と了承してくれた。
「換気扇は常につけっぱなしにしていたほうがいいですよ、冬場でも。換気の電気代なんて月何百円もしませんし、カビでも生えたら掃除が大変ですからね」
 三人で事務所に戻って契約書類を片付けている最中、お兄さんはアドバイスしてくれた。その言いつけを守って、今日も換気扇はフル稼働している。桃色の三枚羽が我が城の心臓だ。

「おうっ」
 ユニットバスから京子の低い声がした。しばらくして、ジャーと水を流す音。
 スキニーパンツの太股で片手を拭きつつトイレから出てきた彼女が口を開いた。
「夏江さ、トイレにマンガ置きすぎじゃね?」
「それ俺も思った。図書館かよって」ナモくんも首を激しく振って同意する。
「びっくりして変な声出たわ。ウチ、実家の本全部集めてもあんな量ないんだけど」といいつつ、京子はちゃっかりトイレ本棚から『北斗の拳』を持ってきている。

64年のビオトピア

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