テーマ:二次創作 / 人魚姫

人魚姫と私の暮らし

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 日曜日の朝早く、ホームセンターで大量に買い込んだ水中用のエポキシパテと防水テープ。私は風呂場、洗面所、キッチンの排水溝やコンセントの穴をパテですべて塞ぎ、窓枠をしっかりとテープで目張りして隙間を塞ぐ。そして家中の蛇口を全開にひねる。あふれ出て、こぼれる水。じわじわと水位は増して、二時間後には膝の高さまで溜まった。夜には二階の高さまで水は溜まるだろう。
 そう、今日から私は人魚と暮らすのだ。

 彼女は尾びれに牡蠣を三つ付けている。それは彼女の唯一のアクセサリーで、家柄の高い証拠でもあるらしい。今夜はその牡蠣と良く冷えたシャブリで乾杯することにしよう。「その牡蠣、バターで炒めてみようか」と聞くと、彼女は「信じられない」と怒ってしまった。
 彼女と暮らし始めて四日目、水浸しの暮らしにも幾分慣れた頃、彼女はスニーカーが欲しいと言った。赤いコンバース、星がひとつ付いているやつ。私はあぶくをぶくぶくと、考え込んでしまう。人魚の願いはいつだってわがままで、少し悲しい。

 私は内緒で赤いスニーカーを買って来た。だが、ふと思い出した。かつて読んだ童話には、人魚は人間の男と心底愛し合うと、二本の足を手に入れることができると書いてあった。私は彼女にそのことを思い切って聞いてみた。「私は君を愛している。君はどうなんだろう」。すると彼女はだまって目を伏せて、すいすい泳いで二階へ上がってしまった。
 そして次の日、彼女は海に帰りたいと言った。


 勢い良くドアを蹴り破る。家中の水が勢いよく噴き出して、あたりの住宅街を水浸しにした。赤いスニーカーも水に流され、どこかへ行ってしまった。新聞をくまなく見ていると、ごくごくまれに「住宅街が突如、鉄砲水に襲われる」という記事を見つけることが出来る。
 あの鉄砲水から何年かの歳月が流れた。一緒に暮らす彼女のために、かいがいしく準備などしていたのはもう遠い昔。あのあと私は良くないことにも手をだして、どこか捨て鉢になりながら、いくつかの危険もすり抜けてきた。けれど、幸運はそんなに長く続く物ではない。  
 後ろ手に手錠をかけられ、椅子に座った私の足下にセメントが注がれてゆく。「ああ、私も二本の足を失くしてしまうんだな」そんなことをぼんやり考えながら、セメントはだんだんと乾いていく。翌朝、男たちは私を海に投げ入れた。



 海の底に沈められて何年が経つのだろうか。海の中は毎日同じ景色のようで、毎日色が違うことを知った。私の体をつつく魚たち。「やあ、おはよう」とあぶくを吐きながら挨拶をする。塩分のせいか、魚のせいか、かつて着ていた洋服はほとんど擦り切れ、布の切れっぱしはワカメのように潮の流れに揺らめいている。足元のコンクリートの塊にはフジツボやカニ、イソギンチャクやサンゴたちが住み着いて、ひとつの小さな街のようだ。

人魚姫と私の暮らし

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