『明日への扉〜あすとび〜』アットホームオリジナル動画コンテンツ

#060 甲州水晶貴石細工職人 藤森 信行

甲州水晶貴石細工職人

Kousyusuisyokisekisaiku-Shokunin

藤森 信行

Fujimori Nobuyuki

プロフィール

1978年 神奈川県生まれ

15歳の時、父親の仕事の関係でアメリカ・ニューヨークに移住。大学では会計学を専攻したが、25歳になり“日本の伝統文化に携わりたい”との想いから単身で帰国。
甲州水晶貴石細工の老舗「土屋華章製作所」の6代目 土屋 穣氏に弟子入りする。以降、師匠のもとで技術を磨き、伝統に縛られない様々なデザインの作品を生み出している。

この仕事を選んだ理由は?

アメリカでの高校時代に、美術の必修科目で「陶芸」を選択しました。
先生が「何を作っても良い」というので、自分の手や、人の上半身などを制作するようになりました。もともと粘土細工が好きだったこともあり、嬉しくて、夢中で作っていたことを思い出します。そのうち「完璧な物にしたい」と思い、人間の骨格や筋肉についての授業も選択し、勉強しました。ただ、当時の私にとって「陶芸」はあくまでも趣味であって、大学では会計学を専攻し、就職もその方面でと考えていました。
しかし、卒業が近づくにつれ「物作りの楽しさ」を思い出し、「自分が作ったものが後世に残るような仕事をしてみたい」という結論に達したのです。さらに、やるからには長い伝統を誇る仕事に携わって、自分自身も高めて行けるようなことをやってみたいとも思うようになりました。そして行き着いたのが日本の伝統工芸だったのです。
すぐに日本から伝統工芸に関する様々な資料を取り寄せました。見ると、どれも素晴らしいものばかりで、自分が日本人であることに誇りを感じました。中でも目を引いたのは甲州水晶貴石細工でした。「これが本当に石なの?どうやったらこの美しさを生み出せるのか知りたい!」と直感的に思いました。さらに、石が素材であることは、自らの作品を後世に残せるとも思いました。
夢のような、ロマンがある仕事。まさに理想形でした。
大学を卒業した後、すぐに単身で帰国し、甲州水晶貴石細工職人の門を叩きましたが、何の実績も無く、年齢も25歳と高く、アメリカから帰国して間もない自分を雇ってくれる所はありませんでした。とにかく粘って思いを伝え続けた末、私に目を向けてくれたのが、土屋華章製作所の6代目 土屋 穣師匠(故人)でした。

師匠の6代目土屋 穣氏とは、どのような存在でしたか?

師匠は、しっかりと方向を示してくれる人でした。「結果の善し悪しよりも、その結果が職人としての成長に繋がるなら良い」という言葉が忘れられません。
石は一度削り始めるとやり直しがききません。だからこそ、失敗を恐れてばかりいるのではなく、糧にしなくてはならないのです。
そして仕事に慣れてきた頃、今度は「石を殺すな」と言われました。「原石を生かすも殺すも職人次第だ」と。師匠は、石とこの仕事をとても愛していらっしゃいました。亡くなった今もなお、私にとってとても大きな存在です。
また、師匠は生前「10年やらないと、この仕事は分からない」とおっしゃいました。今、私はこの仕事に就いてちょうど10年になります。師匠が言ったように、ようやく自分が得意なことと苦手なことが分かってきた気がします。

土屋華章製作所 7代目 土屋 隆 さん インタビュー

藤森さんはどんな職人さんですか?

とても向上心の高い人だと思います。
先代のもとで修行を積んだ7年間は、先代が言ったこと、やったことを、自分のものにしたいという思いが強かったように思います。他の職人とは、眼差しが違いました。作品作りに対する姿勢も真面目でコツコツやる努力家ですし、とてもストイックです。彼を見ていると、メジャーリーガーのイチロー選手のようだと感じます。
先代が見つけた種が、実を付け、花を咲かせようとしています。私は、これからもずっと水をあげ続けたいと思います。

取材を終えて・・・

妻 千晶さんについて藤森さんは「妻の名前に“水晶”の“晶”の字が入っていることに運命を感じたんです」と照れ笑いしました。千晶さんの誕生日には、自分と千晶さんをモチーフにした猫の水晶細工を制作しプレゼント。そんな2人の現在の宝物は、昨年(2013年)10月に誕生した娘の野々花ちゃん。早速、野々花ちゃんをモチーフにした子猫の水晶細工を作り、千晶さんにプレゼントした作品を一緒に飾っているそうです。愛娘のために「そのうち、水晶で雛人形を作ります」と話す顔は、とっても素敵なパパであることを、私たちに示していました。